
現在ではタワーマンションが立ち並ぶ月島・勝どき・晴海ですが、昔から人口の多いエリアだったわけではありません。都心に程近いベッドタウンとなったのは実はごく最近の話です。
今回は東京・湾岸エリアの中でも月島・勝どき・晴海を中心に、街がどのように生まれ、現在の姿になったのかを辿ります。
【江戸~戦前】湾岸エリアの始まり
現在の月島・勝どき・晴海周辺は、江戸時代から存在した佃島・石川島と、明治以降に埋め立てられた土地から成り立っています。
江戸時代から続く漁師町・佃島

現在の佃周辺は、もともと「佃島」と「石川島」という別々の島でした。
佃島は、江戸時代の1644年、摂津国西成郡佃村、現在の大阪市周辺から江戸へ移り住んだ漁師たちによって築かれた島です。幕府との結びつきが強く、江戸近海で漁業を営む町として発展しました。

佃島からは、かつてから「佃の渡し船」と呼ばれる渡し船が本島への交通手段となっていました。

佃といえば「佃煮」でも知られています。漁で獲れた小魚などを醤油で煮て保存食にしたことが、佃煮の始まりとされています。
一方、隣の石川島は幕末になると工業の拠点へと変わっていきます。

1853年のペリー来航をきっかけに水戸藩の洋式造船所が設けられ、明治時代には石川島造船所へ発展。その後、合併などを経ながら日本の重工業を支える工場となり、1979年に工場が閉鎖されるまで操業を続けました。
月島エリアが19世紀末の埋立で誕生

現在の月島の大部分は、明治時代以降の埋め立てによってつくられた土地です。東京湾の浚渫工事で発生した土砂などを利用して埋め立てが進められ、19世紀末になると現在の月島周辺に新しい土地が形成されていきました。
その土地に集まったのが、機械・鉄工・金属加工などの工場です。
近くに石川島造船所があったため、その関連工場や下請け工場も月島周辺へ進出。20世紀初頭には東京の臨海工業地帯の一角として発展していきます。

工場が増えれば、そこで働く人たちが暮らす住宅も必要になります。そこで月島では、限られた土地に多くの人が暮らせる長屋が数多く建てられました。
現在の月島の街並みにも、工場とそこで働く人たちの住宅が隣り合って発展した、かつての工業都市としての歴史が残っています。
勝どきの埋め立てと橋の建設

勝どきも、明治後期から昭和初期にかけて進められた埋め立てによって形成されたエリアです。
「勝どき」という地名のルーツは日露戦争に遡ります。旅順陥落を記念して渡船場が設けられ、「勝鬨の渡し」と名付けられ、その後1940年に完成したのが勝鬨橋です。
当時この周辺に工場や倉庫、埠頭が集まり、大型船が行き来していたことを象徴する建築物として今も形を残しています。
【戦後~高度経済成長期】工業・港湾の街として発展
戦後になると、月島・勝どき・晴海は東京の復興と高度経済成長を支える工業・港湾エリアとしてさらに発展します。
月島・勝どきでは工場や倉庫とそこで働く人たちの住宅が増え、晴海では埠頭や団地、国際見本市の会場が整備されました。現在の住宅地とは大きく異なる、「働く場所」としての特色が色濃かった時代です。
晴海エリアの開発

晴海も戦前までに造成されており、1940年に予定されていた日本万国博覧会の主会場として利用される計画もありましたが、戦争の拡大によって開催は延期。戦後には一部が米軍に接収され、その後返還され、本格的な開発が始まりました。
1950年代に入ると、晴海では住宅・港湾・展示施設の整備が進み、1958年には、日本住宅公団による「晴海団地」が完成しました。
晴海団地の設計を手がけたのは建築家の前川國男。日本住宅公団初期の高層集合住宅で、現在では戦後日本の集合住宅史を代表する建築の一つとして、URまちとくらしのミュージアムに住戸の一部が復元されています。
一方、海側では晴海埠頭の整備も進められました。
1950年代からは国際見本市の会場としても使われるようになり、1959年以降は恒久的な展示施設が整備されました。その後1996年に東京ビッグサイトへ役割を引き継ぐまで、晴海は約40年間にわたって東京を代表する展示会場の一つでした。
月島・勝どきは長屋文化が発展
月島・勝どきでは、戦後も鉄工所や機械工場、倉庫などが集まる街として発展しました。1964年には佃大橋が開通。それまで約300年間にわたって隅田川を渡る交通手段となっていた「佃の渡し」は役割を終えました。
そこで働く人たちが暮らす住宅や商店も増え、特に月島では路地を挟んで長屋が並ぶ独特の街並みがさらに発展していきました。
この時代は現在のような「都心の人気住宅地」というイメージがまだ薄く、工場とそこで働く人たちの暮らしが近接した街でした。
【バブル以降】工場街から住宅地への変貌
昭和末期から平成、いわゆるバブル崩壊以降の時代に入ると、湾岸エリアの土地の使われ方が大きく変わってきます。
工場や港湾機能の移転によって生まれた広い土地に住宅開発が進み、地下鉄の開通によって都心へのアクセスも向上しました。それまで工場や倉庫を置く場所だった湾岸エリアが、都心近くで暮らす場所として評価され始めたのはこの時期以降です。
佃・巨大工場跡地が地上40階の高層住宅に

湾岸エリアにおける再開発の先駆けとなったのが「大川端リバーシティ21」です。
1979年に石川島播磨重工業の工場が閉鎖されると、UR都市機構の前身である日本住宅公団と三井不動産が工場跡地を取得します。
そこから大規模な住宅地へ転換するプロジェクトが始まり、隅田川沿いに超高層住宅が次々と建設されて現在の街並みが形成されていきました。
当時としては珍しかった超高層住宅を都心の水辺につくる計画は、「ウォーターフロントに住む」という新しい住宅地のイメージを打ち出すものでした。
地下鉄月島駅の開業

1988年には、東京メトロ有楽町線の月島駅が開業しました。
湾岸エリアは銀座など都心部から距離的には近いものの、鉄道アクセスには恵まれていない点が居住には不利でした。それが地下鉄の開通によって都心へのアクセスが大きく改善すると、住宅地としての価値が高まっていきました。
同じ頃、月島のもう一つの顔となる「もんじゃの街」というイメージも定着していきました。
もともと数店舗あったもんじゃ店が1980年代以降にテレビや雑誌などで紹介されるようになり、1990年代には西仲通りを中心に多数の店舗が開店。再開発が進む裏側で、現在の「月島もんじゃストリート」につながる街並みが形成されていきました。
勝どきエリアの発展

勝どきでも昭和末期から住宅開発が進み始めます。1987年には、現在の乾汽船が所有地に「プラザ勝どき」を竣工。その後もマンションやオフィスの開発が続きました。
現在のように「勝どき」という街自体が住宅地として知名度を持っていたわけではありませんでしたが、これ以降独自のブランドを築く流れが作られていきます。
晴海エリアの再開発

参照:中央区観光協会「晴海アイランドトリトンスクエア(ショップ&レストラン)」
1996年には、東京ビッグサイトの開業に伴って晴海の国際見本市会場が閉場。約40年間続いた展示場としての役割が終了します。
以降、晴海エリアでも高層ビルの建設が続きます。1998年には50階建ての「晴海ビュータワー」が竣工。老朽化が進んでいた晴海団地の跡地でオフィス・商業施設・住宅などからなる「晴海アイランド トリトンスクエア」が建築され、2001年に開業します。
かつて団地や工場、展示施設などが存在した土地をまとめて再編し、住宅・オフィス・商業施設を組み合わせた街をつくるという、現在の晴海につながる開発手法が本格化していきました。
【2000年以降】タワーマンションの林立進む
2000年代に入ると、湾岸エリアの住宅地化はさらに加速します。
月島・勝どき・晴海には、工場や倉庫、埠頭などとして利用されていた広い土地があり、大規模な街区開発を行いやすい条件が揃っていました。それに加え、都心への近さや水辺の眺望も住宅地として評価されるようになり、超高層マンションが次々と建設されていきます。
古い街並みと共存する月島

月島の特徴は、再開発が進んだ現在でも、昔からの街並みが比較的多く残っていることです。
西仲通りにはもんじゃ焼き店や商店が並び、その周囲には細い路地や低層住宅も残っています。そのすぐ後ろにタワーマンションが立ち上がる、新旧が入り交じった景観が現在の月島です。
一方、木造住宅が密集する地区では、防災性や道路整備などの課題もあり、2026年現在も月島三丁目では北地区・南地区の2つの市街地再開発事業が進行しています。
再開発計画では、西仲通り沿いに低・中層の建物を配置するなど、商店街との連続性にも配慮した計画が進められています。
昔の街をすべて取り壊して新しい街にするのではなく、既存の商店街や地域コミュニティを残しながら高層化していく方針が立てられています。
急速に開発が大型化した勝どき

勝どきでは、2000年代以降にマンション開発の規模が急速に大型化し、THE TOKYO TOWERS、勝どきビュータワー、KACHIDOKI THE TOWERなど、1棟または一つの開発だけで数百~数千戸規模となる超高層マンションが次々と建設されました。
最近では2023年に勝どき東地区の再開発によって「パークタワー勝どきミッド」「パークタワー勝どきサウス」が竣工。2棟だけで1,665戸という規模です。
こうした開発によって、街の人口も大きく変わりました。2026年4月時点の中央区の人口統計では、勝どきの人口は30,613人。月島の16,390人を大きく上回っています。
1990年代にはまだ工場や倉庫の街としての面影が強かった勝どきが、約30年で3万人以上が暮らす住宅地へ変化したことになります。
勝どき東地区では既に完成したパークタワー勝どきの2棟に加えて、残る街区の整備も進行中です。
また、さらに興味深いのが、1987年に建てられた「プラザ勝どき」など、勝どきが住宅地へ転換し始めた初期の建物自体が建て替えられる段階に入っていることです。
工場や空地をマンションに変えるだけではなく、住宅地化の初期に建てられた建物を、さらに大規模な街へ更新するという次の再開発サイクルが始まっています。
新たな街が形成された晴海

晴海エリアは既存の住宅街の中でマンションが増えたというより、広い土地を一体的に開発し、新しい街区そのものをつくるプロジェクトが多いことが特徴です。
その象徴が国際見本市会場の跡地に建設された「HARUMI FLAG」です。この土地は東京2020大会では選手村として利用され、大会後に住宅へ改修されました。
晴海は「昔からある街に新しい住民が加わった」というより、再開発によって新しいコミュニティそのものが形成されている点が月島・勝どきとの大きな違いです。東京都も、子育てファミリー、高齢者、外国人など多様な人が暮らす街を整備方針として掲げています。
2026年4月現在、晴海全体では29,002人が暮らしており、勝どきとほぼ同じ規模の人口を抱える街になっています。
晴海は鉄道駅から距離のある場所が多いことが長年の課題でしたが、現在は東京BRTが新橋・虎ノ門方面と晴海・勝どきなどを結んでおり、都心への公共交通を補っている状況です。
(BRT記事)
HARUMI FLAGの整備が完了したことで晴海周辺の大規模開発は一つの節目を迎えましたが、今後の土地利用にも注目です。
再開発により変わり続ける街
月島・勝どき・晴海は、埋め立てや産業構造の変化、交通網の整備など、その時代の東京の変化に合わせて土地の役割を変え続けてきました。
現在ではいずれも人気の住宅エリアとなっていますが、それぞれが歩んできた歴史の違いは、街並みや住宅の作られ方にも表れています。
また、今後も引き続き再開発計画が進められる予定です。東京都では現在、東京駅から新銀座、新築地、勝どき、晴海、豊洲市場を経由し、有明・東京ビッグサイト方面までを結ぶ「都心部・臨海地域地下鉄」の事業化に向けた検討を進めています。特に現在鉄道駅から離れている晴海にとっては、交通環境を大きく変える可能性があるでしょう。
埋め立てにより誕生し、100年以上にわたって土地の使われ方を変えてきた湾岸エリアが、今後どのような街になっていくのかにも注目です。
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